ハプスブルク家とは
ハプスブルク家とは

House of Habsburg ハプスブルク家とは

「汝、オーストリアを結婚によって幸福にすべし」
という家訓を持つハプスブルク家。

オーストリアを拠点に中東欧、ネーデルラント、スペインなどを支配に広げ、カール5世の時代には中南米やアジアにも領土を獲得。十五世紀以降、神聖ローマ帝国皇帝位を代々世集。ナポレオン戦争による神聖ローマ帝国解体後は、後継のオーストリア帝国の皇帝となった。第一次大戦後に、帝国が終焉を迎えるまで、数世紀にわたり広大な領土と多様な民族を統治したヨーロッパ随一の名門家。

フランツ・ヨーゼフ1世
エリーザベト(シシィ)
アマーリエ・アウグステ
フェルナンド2世

Dr. Géza von Habsburg Profile ゲーザ・フォン・ハプスブルク大公プロフィール

美術史と考古学の博士であり、
オーストリア皇帝直系の末裔で
ザクセン最後の王の孫。

ゲーザ・フォン・ハプスブルク博士は美術史と考古学の博士であり、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの直系の末裔であると同時に、ザクセン(旧東ドイツ南東部)最後の王の孫でもあります。
7ヶ国語を自在に操り、23年間クリスティーを始め、ハプスブルクオークションハウスなど2つのオークションハウスの議長を務めました。また、ファベルジェの世界的第一人者であり、メトロポリタン美術館をはじめ、世界的な美術館においてキュレーターとして何十万人もの観客を魅了した3つのファベルジェ展覧会を大成功に導きました。
ゲーザ博士は現在までに、ヒストリーチャンネル、NHKをはじめ、6本の映画やドキュメンタリーに特集され、「Midnight in the Garden of Good and Evil」の中にも描写された。また、ファベルジェやクリスティー、サザビーズなど13冊の本を出版し多くの論文を発表しております。

Habsburg
Dr. Géza von Habsbrug

Géza von Habsburg Family Tree ゲーザ家 家系図

ゲーザ・フォン・ハプスブルク博士の華麗なる家系一族

Family Tree
Family Tree

History of The Habsburg Family ハプスブルク家歴代人物ヒストリー

Franz Joseph I.

フランツ・ヨーゼフ1世 /
オーストリア皇帝・ハンガリー国王

フランツ・ヨーゼフ1世( Franz Joseph I.)は、オーストリア皇帝(在位:1848年 – 1916年)。ハンガリー国王などを兼ねた。
全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。
68年に及ぶ⻑い在位と、国⺠からの絶⼤な敬愛から、オーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「国⽗」とも称された。晩年は「不死⿃」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。後継者となった最後の皇帝カール1世は統治期間が2年に満たなかったため、しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。
3⽉⾰命によって伯⽗のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、18歳の若さで即位する。
治世当初は⾸相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵に補佐され、北イタリア(ロンバルド=ヴェネト王国)とハンガリーの独⽴運動を抑圧、⾰命を鎮圧した。フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない⼈物であり、⾃由主義、国⺠主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルティスムス)と称する絶対主義的統治の維持を図った。
イタリア統⼀戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディアを1859年に、ヴェネトを1866年に相次いで失う。さらに、ドイツ統⼀に燃えるプロイセン王国⾸相のビスマルクの罠にかかり、1866年の普墺戦争では、消極的な⾃軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで⼤敗を喫し、プロイセン軍に⾸都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、⼆⽉勅許(憲法)で⾃由主義的改⾰を⼀部導⼊することを認めざるを得なくなる。
1867年、ハンガリー⼈とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー⼆重君主国が成⽴した。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、⼆重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する⼀⽅、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して⼤幅に認めた。しかし、この後も⺠族問題は先鋭化の⼀途をたどり、1908年にボスニアとヘルツェゴヴィナを併合したことは、汎スラヴ主義の先頭に⽴つセルビア王国との関係を悪化させ、さらに⺠族問題を複雑化させることに繋がった。
普墺戦争後は、普仏戦争で中⽴を守り、ビスマルクおよびドイツ帝国と接近・協調していった(パン=ゲルマン主義)。1873年にはドイツ、ロシアと三帝同盟を、1882年にはドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶ。
帝国内の⺠族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年のサラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント⼤公が暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、第⼀次世界⼤戦が勃発する。戦争中の1916年、肺炎のためウィーンにて86歳で死去した。

Elisabeth von Wittelsbach

エリーザベト・フォン・
ヴィッテルスバッハ /
オーストリア皇后・ハンガリー王妃

エリーザベト・フォン・ヴィッテルスバッハエリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハElisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、1837年12⽉24⽇ – 1898年9⽉10⽇)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。「シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られる。
バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王⼥ルドヴィカの次⼥として⽣まれた。幼少の頃は⽗マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した⽗の傍らでチップを貰う少⼥に扮したり、また狩りに⾏くなどしていた。王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため⾃由を満喫していた。
そんな⽣活は1853年8⽉、姉ヘレーネの⾒合い相⼿だった、⺟⽅の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に⾒初められて求婚されたことによって終わりを告げた。シシィは婚約が決まった翌⽇からお妃教育を受けさせられたが、不真⾯⽬で勉強嫌いの彼⼥は何度もヒステリーを起こしていたという。しかし、彼⼥にとって⽣涯忘れられない出会いもあった。お妃教育の⼀環として彼⼥に広⼤なオーストリア帝国の歴史を教えたマイラット伯爵は、彼⼥が最初に出会ったマジャル⼈だった。伯爵は共和制の素晴らしさを彼⼥に密かに吹き込むなど、彼⼥に多⼤な影響を与えた。1854年4⽉、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。しかし、⾃由⼈だった⽗の気質を多く受け継いだ彼⼥は、⺟⽅の伯⺟で姑であるゾフィー⼤公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、また、マイラット伯爵の教育を受けたエリーザベトがハンガリーや当時独⽴を求めていた北イタリアに同情的であることを察したゾフィーは、エリーザベトの影響でフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーやイタリアに寛容になることを嫌い、中傷ビラを撒く、エリーザベトが宮殿の外に出た際には暴徒に囲ませる、といった嫌がらせをした。徐々にエリーザベトは⼈前に出ることを極度に嫌がり宮廷⽣活や皇后としての義務や職務を嫌い、⼤⻄洋に浮かぶマデイラ諸島などに療養に⾏く、夫に同⾏してイタリアを訪問する、あるいは個⼈的に旅⾏に出かけたり病院を慰問したりと、⽣涯に渡りさまざまな⼝実を⾒つけてはウィーンから逃避し続けた。
特にエリーザベトが⼼安らぐ最⾼の場所としたのは、当時オーストリア帝国の⼀部であったハンガリーであった。ゾフィー⼤公妃がマジャル⼈嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。その熱意は勉強嫌いの彼⼥が、短期間でハンガリー語を⾝につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。穏健独⽴派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの⾃治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代⾸相、帝国外相となる。
エリーザベトの晩年最⼤の悲劇は、息⼦ルドルフ皇太⼦の⾃殺であった(1889年、暗殺説もあったが、のちにルドルフの⼼中相⼿が⾃分の⺟宛に送った遺書が発⾒された)。夫フランツ1世の死後喪服を着続けたマリア・テレジアに倣い、その後彼⼥は死ぬまで喪服を脱ぐことはなかった。 1898年9⽉、旅⾏中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア⼈の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで⼼臓を刺されて殺害され、その⽣涯を閉じた。

Maria Theresia

マリア・テレジア /
オーストリア⼥⼤公・
ハンガリー⼥王・ボヘミア⼥王

マリア・テレジアマリア・テレジア(Maria Theresia, 1717年5⽉13⽇ – 1780年11⽉29⽇)は神聖ローマ帝国のローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア⼤公(在位:1740年 – 1780年)、ハンガリー⼥王(在位:同じ)、ボヘミア⼥王(在位:1740年 – 1741年、1743年 – 1780年)で、ハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な「⼥帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼⼥の次代から、つまり⼦供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(⼆重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本⼈が好んで使⽤した称号(サイン)は「Königin(⼥王)」と「Kaiserin(皇后)」の頭⽂字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に⽤いられるようになった。
1717年、ハプスブルク家のローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの⻑⼥として誕⽣した。カール6世の最初の⼥⼦であり、両親は遥かヨルダン川の⽔で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に⻩⾦の⼦供像を奉納したりと歓迎した。「⼩さなレースル」は⺟親譲りの輝く美貌を持ち、市⺠からの⼈気も⾼かった。
それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし、彼⼥の兄が夭折して以後、カール6世に男⼦が誕⽣せず、成⼈したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナ(マリアンネ)のみであったことから後継者問題が表⾯化してくる。
マリア・テレジアの結婚について、オイゲン公はバイエルンとの縁組を勧め、また在ベルリンのオーストリア⼤使ゼッケンドルフやカール6世の侍従⻑バルテンシュタインらはプロイセン王太⼦フリードリヒとの縁組を推薦した。なお、オイゲン公もフリードリヒを推薦したとの説もある。
しかし、ロートリンゲン(ロレーヌ)家は第⼆次ウィーン包囲においてオスマン帝国を敗⾛せしめた英雄カール5世(シャルル5世)の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン(ロレーヌ)公レオポルトの3⼈の息⼦は1723年からウィーン宮廷へ留学し、⻑男クレメンスが婚約者候補となったが]、同年に病没する。そこで次男フランツ・シュテファン(愛称:フランツル)が婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを⼤変気に⼊り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、その様⼦は「夜は彼のことを夢⾒、昼は⼥官たちに彼のことを話している」とイギリス⼤使が記している。
1736年2⽉12⽇、アウグスティーナ教会で2⼈は婚礼を挙げた。この時、マリア・テレジアのドレスの裾を持ったのは、慣例に反して教育係であったシャルロッテ・フックス伯爵夫⼈であった。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地ロートリンゲン(ロレーヌ)公国をフランスへ割譲しなければならず、代わりにトスカーナ⼤公の地位を得た。
カール6世は、オイゲン公の「王⼥には紙切れよりも強⼒な軍隊と財源を残すべし」という進⾔を尻⽬に、『プラグマーティシェ・ザンクチオン』(Pragmatische Sanktion)を出して国内および各国に、彼⼥のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、⼥⼦が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕⽣を夢⾒ており、彼⼥に政治家としての教育は施さなかった。このため、マリア・テレジアの幼少期の公式記録は、ほとんど残されていない。
このような政治的事情の⼀⽅、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であるが、結婚後4年のうちに連続して3⼈の⼤公⼥が誕⽣したため、反オーストリア側諸国の煽動もありフランツが批判を受ける]。1737年、フランツはトスカーナ⼤公となり、1739年1⽉に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を⽴て直し、以後オーストリアの財政基盤となった。
当時の王族としては珍しく、初恋の⼈である夫フランツ・シュテファンとは恋愛結婚で結ばれ、夫婦⽣活は⾮常に円満だった。フランツは時折、他の⼥性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼⼥はそれらを把握した上で容認した。また、夫が亡くなると、彼⼥はそれまで持っていた豪華な⾐装や装飾品をすべて⼥官たちに与えてしまい、以後15年間、⾃らの死まで喪服だけの⽣活を送った。
多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男⼦5⼈、⼥⼦11⼈の16⼈の⼦供をなした。⼦供に関しては、四⼥マリア・クリスティーナを最も可愛がり、彼⼥にだけは相愛のポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の息⼦アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を1766年に許している。このためマリア・テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。マリー・アントワネットはマリア・クリスティーナの次に可愛がられていた。
また、⾝体に障害があり病弱であった次⼥マリア・アンナや反抗的なマリア・アマーリエに対しては⽣涯を通じて酷薄であった。もっとも、彼⼥ら⼆⼈を厄介者呼ばわりして真っ先に嫌ったのが他ならぬマリア・テレジア本⼈である。
死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の⾝を案じていた。夫フランツ譲りの遊び好きな娘に対し、フランス⾰命の発⽣を警告する⼿紙を送っている。

Maximilian I.

マクシミリアン1世 /ローマ皇帝、ブルゴーニュ公、オーストリア⼤公

マクシミリアン1世マクシミリアン1世(Maximilian I., 1459年3⽉22⽇ – 1519年1⽉12⽇)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(1508年 – 1519年)、ローマ王(ドイツ王、在位:1486年 – 1493年)、オーストリア⼤公。
⾃⾝と⼦・孫の結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたことから、マクシミリアン⼤帝(Maximilian der Große)と称される。また武勇に秀で体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎⼠とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多⺠族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に⽣み出されていった。

幸福な結婚⽣活

マクシミリアンは、当時辺境の地であったウィーンと⽐較し、ブルゴーニュ公国の繁栄に驚かされた。フランドル地⽅の貿易は盛んであるが、⼟砂の堆積により港湾機能を失いつつあるブルッヘ(ブリュージュ)に代わりアントウェルペンを拡⼤するなど、産業育成と貿易振興にも取り組んだ。宰相にはカロンドレを任命した。また、改⾰を通じてブルゴーニュの中央集権化を進めようとし、君主としても才覚を⽰し始めた。
1480年に⻑⼥マルグリットが、1481年に次男フランソワ(夭折)が⽴て続けに誕⽣した。政略結婚ではあったものの、マリーとの仲は、後世のマリア・テレジアとフランツ・シュテファン夫妻と並び称されるほどに円満で幸福だった。マリーは同時代には珍しく活動的な⼥性で、常にマクシミリアンについて乗⾺や狩猟、スポーツを楽しんでいた。マクシミリアンはマリーに⼼酔し、彼⼥の⾃慢を故郷の学友に書き送っている。
1482年3⽉上旬、第4⼦を懐妊中のマリーは、当然の如く夫の⽩鷺猟に同伴し、そして落⾺事故により重体となり、流産の末、3⽉27⽇に死亡する。死に先⽴つ3⽉24⽇、瀕死のマリーは「フィリップとマルグリット2⼈を公国の相続⼈に指定し、嫡男フィリップが15歳に達するまでは夫マクシミリアンをその後⾒⼈とする」遺⾔を認め、さらに3⽉27⽇、家⾂に夫マクシミリアンに仕えるよう直々に⾔い残した。その夜、マクシミリアンが⼿を握ったままマリーは25歳で逝去した。

神聖ローマ皇帝

1493年8⽉、⽗の死に伴いマクシミリアンは神聖ローマ帝国の君主となった。⼤空位時代以降、ローマ王位は諸家の間を変遷していたが、これ以後はハプスブルク家による世襲が確定していく。しかし、皇帝戴冠を⽬指したマクシミリアンのローマ訪問はヴェネツィア共和国の反対により阻⽌されたため、トリエントで帝位についた。マクシミリアンはローマでの教皇による戴冠を経ずに帝位についた最初の皇帝となり、これを機にカトリックを後ろ盾とする皇帝の権威はローマと教皇から離脱することになった。彼はミラノ公国のスフォルツァ家の公⼥ビアンカと再婚し、ミラノを事実上の⽀配下に置いた。そしてイタリア進出を図ったが、そのためにフランス王シャルル8世の野⼼が引き起こしたイタリア戦争に巻き込まれることとなった。
1495年、ヴォルムスにて帝国議会を召集し、イタリア戦争の戦費の援助を諸侯に要請した。皇帝の窮状を⾒たマインツ⼤司教ベルトルト・フォン・ヘネベルクをはじめとする聖俗の諸侯は、帝国と皇帝権⼒の分離を要求し、マクシミリアン1世はこれに抵抗するも妥協を余儀なくされ、永久ラント平和令発布、帝国最⾼法院、帝国統治院の設置、帝国議会の整備などの内政改⾰が⾏われた。以後、神聖ローマ帝国は中央集権的ではなく領邦国家の連合としての道を歩むことになる。
1496年、フランス国王シャルル8世の動きを封じるため、2⼈の⼦フィリップ美公とマルグリットをカトリック両王の⼦⼥と結婚させた。 1508年、ローマでの戴冠を妨害したヴェネツィアに対し、攻撃を開始する(フリウリ戦争)。戦争は膠着したが、マルグリットによりフランス、教皇、スペインによるカンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)が成⽴した。しかしフランスがヴェネツィアとの戦いに勝利し、同盟内で突出し始めると、教皇をはじめ他の同盟国イングランドやスイスが反発し、これに対抗する動きが出た。
1511年、教皇主導の対仏同盟、神聖同盟を結成する。しかし翌年ヴェネツィアは同盟を脱退し、フランスと同盟を結ぶ。
1512年、「ドイツ国⺠の神聖ローマ帝国」という⾔葉を使⽤し、神聖ローマ帝国の版図がもはやドイツ語圏およびその周辺に限られること、世界帝国の建設という⽬的の放棄を明確にした。
1513年、イングランド王ヘンリー8世と連合し、ギネガテの戦いでフランスを撃破する。しかし戦況は国によって勝敗が錯綜し、同盟は最終的に⽡解した。1516年にブリュッセルで和議を締結、さらにその2年後にヴェネツィアとも和睦が成⽴した。
1515年、ウィーンでの会談でハンガリーとボヘミアを治めるヤギェウォ家との⼆重婚姻(ウィーン⼆重結婚)を決定し、孫フェルディナント1世に始まるハプスブルク帝国の成⽴を⽅向づけた。こうして神聖ローマ帝国が弱体化する⼀⽅で、ハプスブルク家は隆盛を極めることになった。
1519年、マクシミリアンはヴェルスで病没した。インスブルックの宮廷教会内に霊廟を準備していたが、24,000グルデンの借⾦を理由に滞在を拒否されており、遺⾔により遺体は⺟エレオノーレが眠るヴィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に埋葬された。しかし⼼臓だけはブルッヘの聖⺟教会(ノートルダム教会)にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬された。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の⾔葉が⽰すとおり、ハプスブルク家は婚姻により領⼟を拡⼤してきた。その最も成功した例はマクシミリアンの時代であった。
⾃⾝の結婚によりブルゴーニュ⾃由伯領、ネーデルラントを獲得した。
⼦フィリップとマルグリットをそれぞれカスティーリャ=アラゴン王家の王⼥フアナとアストゥリアス公(王太⼦)フアンと⼆重結婚させた。マルグリットの夫フアンらの早世により、イベリア半島の⼤部分と、ナポリ王国、シチリア王国を獲得した。フィリップは早世するが、その⼦カールはのちにスペイン王(カルロス1世)とローマ皇帝を兼ね、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いた。スペインはアメリカ⼤陸を征服し、⽇の沈まない帝国を築いた。
孫フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)とマリアをハンガリー・ボヘミアのヤギェウォ家の⼦⼥と結婚させた(ウィーン⼆重結婚)。マリアの夫ラヨシュ2世は1526年にモハーチの戦いで戦死し、この結婚を取り決めたウィーン会議(1515年)の決議に従い、ラヨシュの姉アンナの夫であるフェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承した。

Karl V.

カール5世 /カスティーリャ王、
レオン王、アラゴン王、ナバラ王、バレンシア王、マヨルカ王・・・・ローマ皇帝

カール5世カール5世(Karl V., 1500年2⽉24⽇ – 1558年9⽉21⽇)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519 – 1556)、およびスペイン国王(在位:1516 – 1556])。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。
ハプスブルク家の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール⼤帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも⾔われる。さらに当時は⼤航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新⼤陸、アジア(フィリピン)に⾄る世界帝国を築き上げた。カールの理想は、オットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統⼀し、最終的には⻄ヨーロッパの統⼀とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改⾰の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと⼀歩のところで⽬的は果たせなかった。晩年は⻑年の痛⾵と相次ぐ戦争に疲れ果て⾃ら退位し、修道院に隠棲した。

1500年にフランドルのガンで⽣まれ、1517年までネーデルラントで育った。名前は曾祖⽗シャルル豪胆公にちなむ。共に暮らしていた両親は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡った。残されたカールは叔⺟のネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュに育てられた。少年時代の個⼈教師には、後に教皇ハドリアヌス6世となったオランダ⼈、ユトレヒトのアドリアンがおり、恵まれた環境で帝王学を学んだ。さらに側近としてシェブレ侯やジャン・ル・ソヴージュ、メルクリノ・ガッティナラらが従っていた。
1506年、スペインに渡ったばかりの⽗が急死すると、幼くしてネーデルラントの継承者ブルゴーニュ公となった。1516年に外祖⽗フェルナンド2世が死去すると、スペイン語を解さなかったカールはブリュッセルにいながらにして⺟フアナと共同統治という形でカスティーリャ王になった。それは同時にアラゴン、ナバーラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、さらにスペイン領アメリカにいたる広⼤な領域の統治者となったことを意味していた。1515年、⽗⽅の祖⽗マクシミリアンによりハンガリーとボヘミアの王家であるヤギェウォ家との⼆重結婚が取り決められたが、アンナ王⼥がカールと弟フェルディナントのどちらの妃となるかはその時点では未定だった。結婚相⼿を将来の皇帝であるカールではなくフェルディナントに決めると、ハンガリー側からは猛反発を受けた。しかしフェルディナントとアンナにとっては幸福な結婚となった。
1517年に初めて「本国」スペイン⼊りし、トルデシリャスで⺟と再会すると、バリャドリッドで摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始した。1519年にマクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領⼟を継承した。さらに叔⺟にして育ての⺟・マルグリットやフッガー家の⽀援を得て、1519年6⽉28⽇には⽣涯の宿敵・フランソワ1世を破り、フランクフルトに集まった選帝侯達が全票をカールに投じてローマ王(ドイツ王)に選出した。しかしこの選挙資⾦のために統治早々にして莫⼤な負債を負っている。1520年には戴冠式の途上、イングランドに⽴ち寄ってヘンリー8世夫妻と対⾯している。ヘンリー8世の王妃キャサリンはカール5世の叔⺟だったからである。その後、同年10⽉22⽇に伝統に従ってアーヘンでローマ王としての戴冠を受けた。ローマ王となったカール5世は祖⽗マクシミリアン1世の例に倣って教皇からの戴冠を受けることなくローマ皇帝と⾒なされた。

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